花小路文学賞

  花小路の歴史



花小路の始まり

明治44年5月8日、山形市の中央部にあたる七日町以北から薬師公園まで広い範囲で火災が延焼した「市北大火」により、山形市の北部地区の広範囲が焼失しました。
七日町にあった料亭「千歳館」もこの火災に巻き込まれ、再建を余儀なくされました。当時千歳館の周辺は桑畑などで、焼け跡ということもあって新しい道路なども開発されました。
当時の千歳館当主は、料理を提供する「料理屋」、芸妓を呼んで遊興する「待合」、芸妓がいる「置屋」の三業を主体とした街づくりを推奨し、従業員に店を出させるなどして飲食街をつくり、唄や踊りなどの芸事を中心とした花街(花柳街)として形成されていきます。

市北大火からの復興

大正5年、市北大火から復興した山形市を披露するために開催された「奥羽聯合共進会」で、山形を訪れた人々に娯楽のため、花小路は一気に飛躍します。
花小路だけではなく、山形市全体から集めても芸妓が足りず、東京など他県から芸妓を呼び、100数名で40日間の舞台をこなしました。
心配されていた共進会は初日から好評を博し、連日2時間待ちとなり、入場制限するほどの盛況ぶりでした。
大正12年、関東大震災により東京から地方に人が分散し、山形にも江戸文化や都会の流行が入ってきました。その中にいた歌舞伎役者らが花小路で置屋を開業するのを皮切りに、置屋の開業が相次ぎました。三業組合も本格的に結成され、各料亭はそれまでの内芸者をやめ、置屋に依頼することとなります。
昭和2年、農村恐慌や経済不況を払拭するために「全国産業博覧会」が山形市で開催され、その時花小路には120名ほどの芸妓がいたということです。

戦前戦後の影響

大正、昭和にかけて、隣接する旭銀座の映画館街、七日町、旅篭町と繋がり、相互の繁栄に寄与しましたが、戦争のため、昭和19年に飲食店の営業が廃止されると、仕事場を失った芸妓たちは軍需工場へ駆り出されるか、故郷へ帰ることを余儀なくされました。
そのため、敗戦後は進駐軍を接待するために復活しましたが、花小路の芸妓は15名しかいない状態でした。戦後は教育制度も変わり、小さい頃から芸を身に付けることも出来なくなり、芸妓の後継者がなっていきました。

飲食店街としての花小路

その後は各店舗が時代に合わせ、スナック、バー、居酒屋、寿司屋、ホルモン焼きなど様々な店舗に変化し、戦後のバブル期、高度成長期で賑わいを取り戻したものの、昭和40年後半のオイルショック、低経済成長のあおりと、昭和50年の県庁移転の影響で急激に客足が遠のいてしまいました。
その後、なんとか客を呼び戻そうと「花小路振興会」を組織し、夏まつりやドリンクテーリングなどイベントを催し、徐々にその成果が表れています。
また、平成26年に初開催となる「花小路文学賞」で花小路を舞台とした短編小説作品を募集し、県内のみならず全国から92作品もの応募があり、6作品が入賞しました。入賞作品は小冊子にまとめられ花小路振興会各店にて無料配布される予定です。